30年もかかって、やっとWACA(全市交信証)を手にしました。それも 6mのAMから14MHzのRTTY、もろもろ混ざっての成果です。本来なら7MHz SSBオンリーとか、せめてCWオンリーとかの特記付きのものが欲しかったのですが、それらはしばらくお預けです。  

と言うのも、実は一度はWACAを完成していざ申請と思っていた時もあるのですが、根っからの不精が災いして、ついつい先延ばし、そうしている内に新しい市がどんどん増えて、QSOはするものの今度はカードの回収に手間取ると言った始末で、言ってみれば「稼ぐに追いつく貧乏無し」を絵に描いたような話です。  

なぜ今と言うことになりますと、皆様もご承知のように今年(2002年)4月にはまたまた新しい市が誕生の予定です。曰く千葉県の冨里市、香川県のさぬき市、沖縄県の豊見城市がそれですけれど、またまたパイルアップの中でようやくコンタクトにこぎつけても、JARLビューロー経由でカードを受け取るのはずっと先の話になるわけで、そうなるとまた次の新市が誕生すると言った具合で、きりがありません。  

JCGの方は減る一方ですから、まだゆっくりしていられますが、JCCではこのような事情がありますから、どこかで一度きりをつけませんと、それこそ永遠の仕事になりそうだからです。  

世界的に見ますと、DXCCのエンティティはそれほど急に数が増えるわけでもなく、日本国内の市を追いかけるのと異なって、コンディションやら、DXペディション待ちやら、極度の競争率などで、そう簡単に仕留められらものでもありませんから、少しは辛抱のしがいもあるのですけれど、国内の市であればQSOチャンスはいつでもあるわけで、それだけにこの追いかけっこは一定の目標管理も必要だろうと思われます。つまりどの時点を持って一段落とするかと言う決意です。  

残りの市を追いかけながら、新市は取りこぼさない(新市誕生の時には必ずと言ってよいほど移動サービスをされる局がありますので、その時にコンタクトするのがマストです!)そしてある瞬間全市を確保したと思ったら、すかさず申請すると言うのがベストです。  

2001年を振り返っても大きな変化がありました。 1月 1日付けで新潟県の西蒲原郡黒崎町が新潟市に編入されました。(新市の誕生ではありませんが)次に1月21日付けで東京都の田無市と保谷市が合併して西東京市が生まれました。(ここでプラス 1市)、さらに4月 1日になると茨城県の潮来町と牛堀町が一緒になって潮来市となりました。(ここでプラス 2市)、同日付けで千葉県の白井町が白井市に昇格。(ここでプラス3市)、5月1日付けでは埼玉県の浦和市、大宮市、与野市の大型合併によるさいたま市の誕生(これでプラス4市)、同日付で埼玉県の川里村が川里町に(市の変動はありませんが、町村の変動になります)、後半の10月1日付けで滋賀県の栗東町が栗東市に(ここでプラス5市)、11月15日付けで岩手県の三陸町が大船渡市に合併(市の変動はありませんが、町が一つ消えました)と市の変動だけでもプラス5市ですから、大きな変化です。  

そして2002年はと見ますと、既に2月 2日付けで茨城県の守谷町が守谷市に昇格(市としてプラス1、町は消滅 1)しています。4月以降にも続々と新市の誕生が予定されています。  

ちなみに4月 1日づけで千葉県の富里町が富里市に、同日香川県の津田町、大川町、志度町、寒川町、長尾町の合併によるさぬき市の誕生、同じく同日付で沖縄県の豊見城町が豊見城市に。ほぼ確実な情報としては10月には広島県の江田島町、能美町、沖美町、大柿町が合併して江田島市に、11月 1日付けで茨城県の茎崎町がつくば市に編入など報じられています。もちろん来年以降も新市誕生は目白押しです。  

なんとか稼ぎに追いつこうではありませんか。 (2002/3/6)
 
     

 
 
 
かつて発明王エジソンも若い頃は電信技師として働いていたのですが、もちろんこの頃の電信と言えばすべて有線電信で無線電信となるのはもっと後のことです。昔見た西部開拓史時代の映画に鉄道の駅に行って電報を依頼するシーンがありましたが、そこでも電鍵とモールス電信機が活躍していました。  

榎本武揚の電信機

モールス電信機は丁度私が電信を覚えたころに使われていた印字機と似ています。短点、長点の電気信号をロールペーパーに印字するものですが、これと同様のものが長く使われていたのですね。最近あるOMからFBな資料をいただいて所属する会の会報に載せたのですが、せっかくですので、HPでも皆様にお見せしたいと考えた次第です。  

この貴重な資料は沖電気の沖テクニカルレビュー誌に掲載されたものなので、沖電気に関係のある方はご覧になっているかもしれません。著者は同社の長尾和俊氏および上岡勤氏ですが、題して「モールス電信機複製へのチャレンジ」となっています。沖電気の創業120周年を記念して企画されたモールス電信機複製への過酷なチャレンジのものがたりです。  

原文を全部お見せできませんので、要点のみを要約してご覧にいれます。まず原文のイントロをご紹介します。

==モールス電信機はアメリカのモールスが1837年に発明し、当時の商用通信、軍用通信、公衆通信として幅広く使用された通信機器であり、送信側で文字や数字をモールス符号で送った信号を、受信側では電磁石の作用で紙テープに印字して記録するものである。現在郵政研究所付属資料館(通信総合博物館)には、榎本武揚が幕末にオランダから持ち帰ったモールス電信機1台が保管されている。このモールス電信機は明治維新の混乱で一度は行方不明となったが、古道具屋にあったものを沖冴太郎(沖電気創業者)が購入し、後に榎本と二十年ぶりに巡り合った奇数な運命を秘めたものである。==  

かくして創業120年を記念してこの電信機の複製がスタートするのだが、もちろん設計図一つ無く、資料館の所蔵品ゆえに分解もできず、外側からの推測で調査が開始された。もとになる電信機はおよそ140年前にフランスのディニエー社によって製作されたものであるが、歳月の変化で金属部分はかなり腐食している。ただし木部はまだ想像以上にきれいに保たれていたようだ。  

完成した複製機
そして海外文献をあさり機構や動作原理などを調査し、設計図の復元にあたるわけだが、なぜ沖冴太郎氏が古道具屋で電信機を購入したかと言えば、当時高価な舶来品であった電信機の国産化を目指して明工舎(沖電気の母体)設立となったことも記されている。  

ようやく設計図がまとまって、次は使用部品の検討となるのだが、当時絶縁体に使われていた象牙に代えて樹脂を使ったり、あらゆる苦労があった由である。そして幾多の課題を克服して複製機が完成する。  

電磁石の特性に合わせた乾電池と市販のモールス電鍵、特注の紙テープをセットして「トン・ツー」をたたくと、その信号が見事紙テープによみがえった。ついに技術者の夢が実現した一瞬である。  

我々にしてもアンテナの再現か受信機の製作などに先輩の資料をひもとくのだが、この苦労にくらべると雲泥の差があることがひしひしと伝わってくる。  

原文にはその製作過程の一部始終が細かに語られているのだが、残念ながら、すべてをお伝えできないが、せめてその意気込みと夢への挑戦を知っていただければと願う次第です。 (2002/3/21)

     
 
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