初めてのコンタクトはいつまでも忘れがたいものがあります。いまでこそトランシーバーを買ってきて、アンテナを建てて、免許をもらえば即時電波が出せるようになりましたが、私の開局した昭和30年代は軍用の中古トランシーバーはあったものの、とても高嶺の花で学生の身分では手のだせない代物でした。
と言うわけで、まずはリグ作りから始まったのです。それもトランシーバなどと言う言葉を知ったのはずっと後の話で、当時は送信機(TX)と受信機(RX)は当然別物で、送信機にしても、送信部(すなわち基本周波数を発振し、それを逓倍して、増幅する)と変調部(音声を電波に乗せる)、電源部といくつにも分かれているのが普通でした。もちろんアンテナも手作りです。
私の開局した時代には3ヶ月ごとに電波監理局に交信の実績(トータル運用時間)を報告することが義務づけられていましたから、当然のことながら交信開始時間と終了時間はいつも明確に記入し、後で計算がしやすいように交信に使った時間をログの欄外に書いていました。もちろんログも手作りで大学ノート(この言葉もあまり使われなくなったのではないでしょうか)に線を引いたものです。
そんなセットで第一声を発しQSOしてもらった訳ですが、最初の相手はご多分にもれず、当時学校で一緒だった上田君(JA1APK)と7MHzのAMで交信に至った次第です。距離もおそらく直線で数キロメートルしか離れていませんから安心してスケジュールを組むことができました。昭和30年11月1日午後1時17分から21分までのわずか4分間ですが、十分にファーストQSOの喜びを味わいました。
あけて昭和31年(1956年)2月15日、これも記念すべき私のファーストDXコンタクトが実現したのです。お相手は残念にも昨年お亡くなりになったのですが、フィリピンはマニラのDU1GFジョージ・フランシスコさんで、日本語もお上手で、50MHzでも多くのJA局がお世話になった方です。
周波数と言えばもちろん当時運用していた唯一の周波数帯7MHz(それもクリスタル発振によるスポット周波数(7.075MHz)で電波形式もA3、電力は出力10Wと言うものでした。
アンテナと言えばこれもまた当時としては当たり前の10mのヴァーチカルアンテナ(実際は垂直部分は7mほどで、あとの3mはシャックへの引き込み部分になっていた)と言うおそまつなものです。大学ノートのログにはこの最初の海外交信の部分はあえて赤で記入されているのがその時の感激を物語っております。
とにかくマイクロフォンが壊れるのではないかと言うほど大声でどなったもので、あとから近所の方から「なにごとがあったのですか?」と尋ねられたほど緊張したものです。なぜなら時間は日本時間で午前0時45分、いくら窓を締め切っていたとしても、なにしろ周りは静まりかえっている真夜中ですから、声も相当ひびいたに違いありません。
時が変わり世が移り、いまでこそSSBが主役になっていますし、バンドも次々と解放されて、ハイバンドでDXを楽しむことができるようになりましたが、当時は何と言っても7MHzしかなかったものですから、いまどきのDXとは少し中味も違っているのです。しかも最近はFBなビームアンテナが手軽に入手できますから、たとえローパワーであってもDXは少しも難しいことではなくなりました。
QSLカードの山をひっくり返していましたら、たまたまここにご覧に入れるKH6JOIのカードがでてきました。彼は日系のアメリカ人ですが、ミズホのQRPトランシーバーを使って運用していました。リグはMX-28Sでパワーは2Wと明記されています。そしてアンテナは一世を風靡したヘンテナとありますから、本当に時代を感じます。
ついでに申しますと画面でおわかりのように彼のカードはコールサインがQRPerのQの文字の中にこじんまりと描かれています。最近はQRPでの運用が再び関心を集めていますけれど、カードデザインからここまでQRPに固執している例は少ないかと思います。
(2001/5/8)
|