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アマチュアですから・・・・
悲しいけどちょっといいハナシ(12):JA1CLNとの想い出

元JARL国際課長として数々の国際会議で活躍されたJA1CLN/笠原 豊さんと何度か旅をご一緒させていだだきましたが、最後になったのがBA1CY/周海嬰さんの歓迎と笠原さんの病気快癒を祝った伊豆の旅行でした。気の置けない仲間5人を加えて総勢7名のミーティングツアーに発展しました。

周海嬰(Zhou Hai-ying、中国の著名な作家・魯迅の子息)さんは、中国のオールドタイマーとして全国的に知られた熱心なアマチュア無線家ですが、東京・三鷹市にお住まいの娘さん夫婦宅に双子のお孫さんの誕生に合わせて来日していました。アマチュア無線が大好きなヂョウさんは娘さん宅でもワイヤーアンテナを張り巡らして短波受信機でBAネット(14.180MHz)をワッチしていました。
悲しいことに、 日本と中国の間に相互運用の取り決めがないために電波の発射はかないません。悶々とするヂョウさんをお慰めするために伊豆のドライブにお誘いしたのです。

その頃、笠原さんはJARLを退職した後、渋谷の貿易会社に役員として勤務していましたが、体調に合わせて週に3日の勤務から1日勤務へと次第に減らして、ついにリタイアに至りました。その後、咽頭ガンの疑いから年末に入院、治療を受けて正月にはご自宅へ戻られました。

日がめぐり桜の咲く頃となりました。 笠原さんの体調も安定して外出が可能と夫人からお聞きして、思い切って伊豆のドライブに誘いましたところ、ヂョウさんの参加を殊のほか喜ばれて即座に快諾されました。というのも笠原さんはここ何年もの間、密かに語学学校に通い中国語を勉強されていましたから、ヂョウさんと本場の中国語の会話を楽しみにしておられました。

笠原さんの前職はKDDでの国際間通信のプロフェッショナル。欧州や南米など外国勤務が長く英語、スペイン語、フランス語に長けておられました。JARLを退職して第三の人生を歩みはじめた頃、中国の福建省福州市を訪問して市内の中学や少年宮に5つのクラブ局を一気に援助・建設するプロジェクトに仲間の10名と共に参加しました。このときの交流をきっかけに中国語の習得を決意されたと伺っておりました。

友人と共に東京・練馬のご自宅に笠原さんを迎えに行きました。いつもと変わらないにこやかな笠原さんに安心しながら、その足で三鷹のヂョウさんと合流し東名高速を経由したドライブを楽しみました。笠原さんが中国語で話し掛けました。ヂョウさんが中国語で受けて話しが弾んでいます。因みにヂョウさんは片言の日本語とかなり上手な英語をしゃべります。笠原さんは「私の中国語はどうですか、わかりますか?」と不安な面持ちですが、ヂョウさんは「笠原さんの北京語はとてもお上手です」と周りの人にも分かるように英語で知らせて下さいました。

伊東のリゾートホテルに三々五々仲間が集ってきて一段とにぎやかになりました。記念写真を撮りあったりQSLカードを交換する中、JA1ZNG/モービルハムアマチュア無線クラブの無線設備を部屋に運び込みシャックをしつらえました。アンテナは14MHzと21MHzのツェップを張ってオペレートは食後の楽しみとしました。

笠原さんからのシャンパンの差し入れで乾杯して和やかで親密な夕食がスタートしました。ヂョウさんと笠原さん、それに国際派の旗手で元理事のAさんが加わって役者がそろいました。日本語・英語・中国語が飛び交う中、ユーモラスで楽しいひと時に一同大満足でした。

夕食後の懇親会はシャックのある部屋に集りスタートしました。ラグチューがたけなわの頃、「笠原さん、マジックを見せてください」誰かがせがみました。笠原さんが国際課長に就任早々、ニュージランドのオークランドで開催のIARU第3地域総会に参加した時のこと、さようならパーティーで居並ぶ各国代表団員を前にしてマジックを披露、流暢な英語とユーモラスな話しに拍手大喝采の想い出があります。笠原さんはケーシーと呼ばれていましたが、ケーシーコールがあちこちから沸きあがり、会場が暖かい雰囲気に包まれて気分は最高潮に達した想い出があります。

その笠原さんがマジックをせがむ声を待っていたかのように、立ち上がり意味ありげに片目を瞑って上着のポケットに手を入れて取り出したのは一本の白いロープでした。鮮やかな手つきで切ってはつなぐ妙技を披露しました。アマチュア仲間6人のための独演会です。 にこやかな笑みを絶やさずカードの演技に進みます。間じかに見ているのにタネは全く分かりません。オークランドでのさようならパーティーの再現でした。

それから数ヵ月後、笠原さんの訃報が届きました。お悔やみに行って敬虔なキリスト教徒だったとはじめて知りました。日曜日は必ず教会で神父さんの説教を熱心に聞いていたといいます。病院で亡くなる前日、担当医師に別れを告げ神父さんと一緒に旅立ちの聖歌を唄い「幸せな人生だった」と感謝の気持ちをお伝えになられたそうです。夫人の見守る中、明け方に永遠の眠りにつかれました。

葬儀の挨拶の中で「遺言により大学病院へ献体しました」とご子息が披露されました。
私が入門した自作全盛時代のアマチュア無線家達の間では『不用になった無線機/パーツ類は特別に高価なものを除いては熱心な後輩・入門者の研究・自作援助用に提供するのが真のアマチュアOM精神』という風潮がありました。そんな旧き良き時代のアマチュア無線を想い出しながら、人生の最後に身を呈して伝統的アマチュア精神を貫かれた笠原さんの見事なまでの身の処し方に誰にでもなれる心境ではないと感動したのです。

 

 
 
 
 

 
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