72年前のex J4EAの交友から先達の活躍をしのぶ [第8回]
 
 
 

Editor Shinzaburo Kawai ,JA1FUY

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いつのころか「モービルハム」編集部へ送られてきた小包の存在をしばらくの間、思い出すこともなく忘れていましたが、書庫の整理に取り掛かっているときに当時のままの小包を発見しました。

差出人は植田常夫さん、コールサインはJA5NG、香川県大川郡白鳥町とあり、包みを開くと一通の手紙と黒い表紙のアルバムが出てきました。

このアルバムは 植田さんの親類のex J4EA、岡本良雄(香川県引田町)さんが遺された一冊で、昭和 8年(1933年)J4EAを開局のシャックが冒頭に飾られており、当時交流していたオールドタイマーの活躍がモノクロ写真に鮮やかに焼き付けられていました。

アルバムには昭和になって再び開局し活躍された有名なOMたちの写真を見ることができて興味深いものがあります。

すでに故人になられた方も少なくありませんが、そうした方々を織り交ぜて
アマチュア無線の草創期に活躍されたオールドタイマーの様子を遺された写真から追ってみたいと思います。

▼植田さんの手紙から抜粋

私の親類が大昔、昭和10年頃、J4CW、J4EAで出ていました。その頃の各局の写真を108枚いただいているのですが、私には見飽きて必要ありませんので、もし皆さんに見ていただけるようでしたら寄贈いたします。de JA5NG

写真のコールはJ4EA、J4CB、J3DZ、J3CW、J3EK、J3EH、J2KJJ7CG、J1EG、J2HJ、J2CD、J2HE、J1EA、J6CO、J4CT、J4CF、J3EF、J3DO、J3DT、W6GPB、DE1178、J4CL、J3CX、J4CM、J4EM、J3DP、J3EM、J1DO、J2GXJ6CPJ2GWJ2KQ、WA6GAL、J3DEJ3FK、W6FZY、K6CGK、J2KJ、J1FFJ2HZJ4CIJ2CCJ4CJ、J3FI、J2KP、MX2B鳥取工業学校施設MX2A、J4CO、J4CP、J2IXJ2LWK6CQVXU5KT、K6AKP、EA3DY、K6CRUK4CQV、J5CM、VK3ERS、J4CG
*色つきコールサインはご紹介済み 

J4CM 真鍋 等さん(左)とJ3EM森進さん(右)

J4CM 真鍋等さん 1934年3月15日〜1938年5月14日(当時高松市塩上町)
J3EM  森進さん 1933年7月1日〜(当時、神戸市林田区) 
J4CMのシャックの壁にJ3EMのQSLカードが見えるが、そのシャックが右側の写真。岡本さん(J4EA)のアルバムでも隣り合わせに2枚の写真が貼ってある。

J4CI 鳥取県立工業学校長
 
  (昭和 8年3月17日〜昭和9年.5月19日、鳥取県立米子工業学校長に改名)


 
     
 
昭和 8年(1933年)はどんな時代か?
 
JARL NEWS 1937年5月号 第62号

軍靴とどろく中で

拒み続けた改組

関西でも7月25日の近畿防空演習に関西、東海支部員が特設無線演習隊という名称で参加した。越えて10年9月1日、名古屋で行われた防空演習で、東海支部から防空特殊無線隊として10局が参加した。

参加者は三重県四日市市のJ2CB山口喜七さん、名古屋鉄道局のJ2CD久米鋼三さん、会社員J2CE広間守彦さん、鉄道省官吏J2CF西謙治さん、陶器業のJ2CL花井良太郎さん、東洋紡績のJ2CM松田孝輔さん、会社員J2CN太田寛一さんらの顔ぶれ。

それまでの無線隊が学生中心だったのに比べると、社会人で構成された点が特徴であった。8月下旬、名古屋逓信局に集合して移動許可をとり、田坂国三少佐から通信演習の手ほどきを受けたのち、五隊に編成された。

それから3日間、名古屋市の統制本部に2班を残して、3班は防空監視所に散り、送受信機やアンテナの整備を行った。9月1日、午後1時、土砂降りの雨の中で演習開始。各監視所から入電する警報を受信し、本部へ報告した。成果は上々で9月9日、防空軍民懇談会で、下元防空統監から感謝状が贈られた。

この年の9月15日から南九州で特別大演習があり、J3DE宮井さんたちがはるばる参加した。30年ぶりで天皇陛下が九州へおいでになるというので、地元は歓迎にわき、野立所に厳重な警備がしかれた。

閲兵式のとき、 野立所のすぐ近くで声を出していたのは、放送協会の松内アナと愛国無線隊の宮井さんたちだけだった。あとでハムたちの活躍ぶりが陛下のお耳にはいり、わざわざオペレーションの現場を見学された。

たび重なる演習で気をよくした陸軍の一部からJARLに対し、名称を国防無線隊と改称し軍部の支援組織になれと迫ってきた。「宮さまを総裁にいただき改組してはどうか」という申し入れであった。

これに同調する動きも一部にあったが、軍部にも異論があった。小沢少尉は「軍が民間団体に改組を押し付けるのは好ましくない」と主張した。JARLは「演習に参加するのは地方支部の責任で行う」と答えたまま、正式な回答を保留し続けた。言外にJARLは国防無線隊と表裏一体であることをにおわせ、全国的な改組をのばして解散を拒み続けた。

その後、小沢大尉は少佐に昇進し関東軍の通信参謀に転出した。部内対立で上官の心証を害したからだといわれたものだ。小沢さんはいまでも国分寺市に健在だが、この間の事情については多くを語らない。明治人の気骨のうかがえる話である。  (「ハム半世紀」香山晃著 p.74〜76 電波実験社より抜粋)

 

JARL NEWS 1937年5月号 第62号 p.2


JARL第6回全国大会々記 J3DC 武田正信

昭和12年(1937年)度の全国大会を大阪に持った関西支部は草間委員、赤澤・守田両幹事および数名の有志者の協力によって、大安および何とかによる結婚日に当たる4月3日の吉日に苦労の末、みごとFBな会場を見つけられ用意万端整えられた。


昭和12年(1937年)4月3日、関西支部の協力によりJARL全国大会が開かれた際の記念写真(JARL NEWS MAY 1937)

アマチュア無線の昂揚、親睦のために集まる者、遠くは朝鮮よりJ8CD、東京よりJ2GV、J2HN、J2IS、J2KJ、J2LC、J2LU、J2ME、名古屋よりJ2CB、J2CC、J2CE、J2CF、J2CM、J2CZ、中国よりJ4CJ、J4CL、地元よりJ3CB、J3CS、J3DC、J3DE、J3DF、J3DO、J3EN、J3FI、J3FJ、J3FK、J3FT、J3FU、J3FZ、J3GC、J3GG、の諸氏および大阪逓信局より岩隈・島田両氏が出席された。

午後2時、J3CB草間氏の開会の辞があり、J3EN赤澤氏の挨拶、J2IS三田氏、J2GV柳沢氏の挨拶およびバッジの件およびニュース原稿謝礼の件についてのお話があり、関東支部幹事J2ME福島氏の関東支部の紹介即ち毎月一回ミーティングがあり、研究会は年に4回催されることなど。

東海支部委員兼幹事J2CB山口氏の挨拶および東海支部の紹介即ち盟員の密度が少ないこと、通信士の盟員を師としてキーイングの練習をされているなど。

関西支部幹事J3EN赤澤氏の関西支部の紹介即ち毎月一回研究会を催していることなどのプロローグがあり、ついで席順に自己紹介があった。自己紹介が終わって研究発表があった。発表順に発表者並びに題目を箇条書きにすれば・・・。

(1)ARRLのコンテストについて(J2CB山口)
   3.5Mc、7.1Mc、14.2Mc、28.4Mcの4周波数帯に縦横に活躍された。
(2)ARRLのフィールドデーについて(J3DC 武田)
   1933年6月の第1回 フィールドデーより1936年8月の特別フィールドデーまでの5回のフィールドデーに用   いられた受信機およびその電源の紹介があった。
(3)名古屋地方防空演習参加報告。(J2CB 山口、J2CE 広間、J2CF 西)
   防空の重き使命を帯びて名古屋市とそれを離れること50キロ標高千メートル余の高山との間を10m帯を   用いて通信連絡を確立された苦心談をこもごも語られた。なおこれには指向性空中線を用いられ、山の   方の電源は乾電池を用いられた。
(4)56Mc帯について。(J3CF 津 賀)
   エーコン管、56Mcの受信、空中線等の話があった。
(5)ピエゾ電気について。(J2LU 下村、J2ME 福島)
   ロッシェル塩結晶の得方、切り方等の話があった。
(6)欧米旅行談。(J2GV 柳瀬)
   時代の寵児、無線伝送写真のテスト公務の傍ら彼地で会われた独仏英米のアマチュア気質、アマチュ   アステーションおよびラジオショップ等の興味深い話があった。
(7)タイムシグナルについて。(J3DE 宮井)
   国際式、アメリカ式、学用式、ロシア式、日本式等の報時方法の説明、主なる時報局の名および周波数   の指示等お話があった。(この詳細は氏がニュースに書かれる由)

以上の如き有益なまた興味ある発表があり、午後6時半研究発表は終わり、7時より懇親会が支那料理を伴奏として賑々しく開かれた。宴たけなわにして10時に閉会した。

翌4日は草間氏の案内で世界に誇るJOBK演奏所を見学。設備と感じのよいのに一同感心する。続いて赤澤氏の案内で大阪帝大理学部を見学。時代の先端を切る諸実験装置に興味をそそる。最後に市営の電気科学館に至ってご自慢の天象儀を見る。星の世界に遊ぶこと1時間にして皆天文通になってしまった。ここで全国大会は解散した。(J3DC記 武田正信)  (編注:現代仮名遣いに改めました)

 
 
[特別企画]

ンタビュー!
大前醤油本店(広島県安芸高田市甲田町高田原1055)

「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」のNo.6に丸刈りのJ4CJ 大前茂さんが写っていたのを憶えておられますか? 70年前の1935年5月、アマチュアの交友が数枚のモノクロの写真に鮮やかに残っていました。

大前さんに会いたい!

この記事を見た友人が、もしかして大前OT(オールドタイマー)が健在かも知れないと当たりをつけて、当時の住所「広島 高田郡」を手がかりにインターネットで検索すると、それらしい人が浮かんできました。

意を決して電話すると推測はみごと的中 『昔、アマチュア無線をやったことがある』 、なんと本人から直接お話を聞くことができました。 お年を伺うと90歳!当時20歳として、それから70年、ぴたり合います。

なんとしてでもオールドタイマーにお会いして開局当時の事情を聞きたくて、恐る恐るインタビューを申し込むとありがたいことに快諾をいただきましたので、千歳一隅のチャンスとばかりに10月10日早朝、小雨が降り続く中、羽田空港を発って広島新空港へ日帰り取材を強行しました。

空港から日産レンタカーへ、ここでブルーバードを借りて1時間余の道のりをドライブ、山陽自動車道を経由して中国自動車道の高田インターチェンジを下りて走ること10分。目的地は広島県の北西部、標高190mの山間地に位置し、「緑と花と果実のまちづくり」を目指す甲田町に和のたたずまいの老舗「大前醤油本店」がありました。呼び鈴を鳴らすと、「はい」という声と共に背筋をピンと伸ばした当主の大前さんが笑顔で迎えてくださいました。

ジャンク屋と顔なじみに

大前翁(左)にインタビュー
応接間に通され、挨拶もそこそこに当時の写真をお見せすると、懐かしそうに手に取ってじっと見入り
『確かに私の写真です』ときっぱり。 『送信機と受信機は”無線と実験”の記事を参考に作りましてね、 部品は近くの通信第2連隊の放出品でたいてい間に合ったよ。それもかます*に入って出てきたな、ジャンク屋によく通っていたので顔なじみになってね』 と破顔一笑。

青年期の写真からタイムマシーンに乗って70年前を鮮やかに思い出されたようです。大前翁の記憶力の確かさに敬意を表しつつ、今も昔も変わらぬジャンク好きのアマチュア気質を確認できて嬉しくなりました。 *かます=むしろの袋)




老舗の 2代目


大前醤油本店の会長として現役とお見受けしたが、大正10年(1921年)創業の醤油醸造3代目子息・直行氏(社長)と共に家業に励んでおられました。 『当時の無線機一式とQSLカードは倉庫にしまいこんで、昔のことだから簡単に見つからない』 と表情を曇らせました。

大前醤油本店の醤油工場で撮影

こちらの取材意図を見抜いておられたのはさすがというほかはなく、倉庫の片隅に眠っているかもしれない、古の手づくり無線機をひと目見たいという気持ちを抑えてインタビューを終えました。この後、母屋に続く醤油工場を見学させていただきましたが、「7月に家内を亡くしまして・・・」とぽつり、表情に寂しさが漂っていました。

本醸造醤油は『伝統と技術を活かして、本物の味を大切に原料の大豆はすべて遺伝子組換えでないものを使っている』とのことで、根強い愛用者が全国におられるようです。また 『特選しょうゆ、ごまドレッシング、 がんこ仕込み田舎みそなどが主力』 と聞かされました。

ワープロを見事に操り「手記」を書き上げられ、本誌にご寄稿いただきました。いまだ好奇心を失わない大先輩に脱帽すると共に、アマチュア無線草創の時代に青年期を過ごされたオールドタイマーに 『お元気でお過ごしください』 と申し上げて辞去しました。

 
(上)1935年6月 K6CQV 中西さん(右端)を迎えて左からアルバムを遺されたJ4EA 岡本さん、J4CJ 大前茂さん(当時20歳)、背後はJ4CM 松原さん。

(右)大前茂さん(90歳) 大正4年(1915年) 1月5日生。J4CJ は昭和8年(1933年)7月20日開局、昭和14年(1939年) 2月10日まで運用。 その後、神奈川県横浜方面の会社(東洋真空)に就職、アマチュア無線から遠ざかる。 従軍ののち昭和17年(1942年)の暮れに除隊。家業の椛蜻O醤油本店を継いで現在会長。
 
偶然見つけた写真》 JARL第 6回全国大会の記念写真(JARL NEWS MAY 1937) をもう一度ご覧ください。2列目右から2人目、若き日の丸刈りJ4CJ大前茂青年を発見しました。中国地方からJ4CL西山さんと共に2人で参加しておられます。資料の整理中に見つけた68年前の珍しい写真です。
 
QTC-Japan に寄せられた大前翁の手記


手  記
   ex J4CJ 大前 茂

昔の懐かしい写真をお送り下さり大変ありがとうございました。ハワイより中西さん(K6KQV)が来日され、私は安佐郡古市、現在は安佐南区古市になっておりますが、下宿先と中西さんの実家と近いところにあったため一緒にに四国の高松や引田方面のアマチュアを訪問したときの写真で70年も前のことで細かいことは忘れましたが、シャックでやっているのが小生で18〜19歳の時で現在は満90歳の高齢になりました。

J4CJ (1933-1939) 大前さんのシャック

当時、送信機はもちろん受信機も手づくりで出力5W程度でほとんど世界各地と交信ができ、夢中で取り組んでおりました。昭和11年ごろより横浜の鶴見にあった東洋真空KKという会社に勤めアマチュア無線とは縁遠くなりました。

熊谷陸軍飛行学校から昭和14年(1939年)、戦地で第三飛行・集団指令部通信班で航空無線関係の整備等に当たりました。当時、北京にありましたが南京に移動し、昭和17年(1942年)、シンガポールから同年8月にテンガー飛行場よりサイゴンに帰還途中、エンジントラブルで片肺飛行となりました。

しかも凄い振動の中で受信機は駄目になり、送信機を直し何とか送信できるようになったので、生文でサイゴン南方200キロと打電し死を覚悟しましたが、幸い小さい島を見つけしかも砂原へ胴体着陸で何とか助かりました。

コンドル島で日本海軍が10名ほどが警備をしており、フランスが囚人島として使用していることが後でわかりました。迎えの船が来るまで10日ばかり海軍さんの世話になりました。迎えの船でサイゴンに着き同地より南京に帰り、南京より17年の暮れに内地に着き、我が家に帰り着きました。

まだ書きたいことがいろいろありますが、機会があればまたの時にします。御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。体調を崩し横になる時間が長くなりました。ではまたのときに、ご自愛ください。不一

 
コンドル島について インターネットで「コンドル島」を検索をするとKondul Island (island(s)), Indiaというのが出てきて、なんとあのAndaman & Nicobar islands のテリトリー内にありました。この島に不時着したとすると、ハムにとって何となく意味深です。
[不一] 手紙の結びに添えて、まだ 十分に意を尽くし切れていないことを表わす語。
 
70年前の"百万一心碑"を探る!?
 

甲田町から車で走ること10分、吉田町に国史跡指定の郡山城址を訪ねました。ここに「百万一心碑」があると聞いて甲田町から駆けつけると、なんと郡山城址の奥まったところに毛利元就の墓所に向かい合う形で、その碑が建っていました。

地元のコンビニで若い店員に"百万一心碑”の場所を尋ねると 『知らない』 という、地元の人なら誰でも知っている名所旧跡と思い込んでいましたから、素っ気無い返事にびっくりしていると、 『吉田歴史民族資料館で尋ねてみたら』 と知恵を出してくれて助かりました。これを手がかりに目的地にたどり着くことができました。

はじめから郡山城址あるいは毛利元就の墓所に行きたいと言えばすぐにわかったのに、聞き方が悪かったと反省しました。ここを訪ねた理由は、70年前の丸刈り学生服姿の大前青年(J4CJ)が日系ハムの中西さん(K6KQV)を案内して"百万一心碑”を訪ねた一枚の写真が残っているからで、せっかく近くに来たのだから70年の時空を超えて、同じ場所に立ってみたいと思ったからです。

 

郡山城址の観光マップ。洞春寺跡から撮影したのが右の写真。中世の城跡だけに地味なたたたずまい

鳥居をくぐり突き当りの右が毛利元就の墓所。左側に墓所に向かい合う形で「百万一心碑」がある
 

インタビューの中でこのことを尋ねると 『 細かいことは忘れたが、中西さんを案内して吉田町に行きましたよ』 と記憶が鮮やかに蘇った様子でした。「百万一心碑」の前で撮影した70年前(1935年7月30日)の写真をお見せすると、 『確かに左端が私(J4CJ)で、J4CF、J4EAの3人です』 はっきりと思い出されました。

中西さんを案内して郡山城址を訪ねるには、芸備線の甲立駅からタクシーそれとも馬車?当時はタクシーがあったろうかなどとのんきなことを考えながら、たぶん歩いたに違いないという結論に落ち着きました。下の写真が70年前と現代の"百万一心碑”の写真です。

左から大前さん(J4CJ)、松原さん(J4CF)、岡本さん(J4EA)の3人(1935年7月30日撮影) 2005年10月10日に撮影の「百万一心碑」、左の写真と比べてもたたずまいが変わらない


 
百万一心碑

毛利元就の墓所内にあり、郡山築城の際に元就が、人柱に代えて 一日一力一心の大石を鎮めとしたという摸彫の碑が、吉田町郷土史調査会で建てられています。

「日を一にして、力を一にし、心を一にする」という共同一致の精神を示したものです。


(吉田町史跡・郡山城址案内図より)
 
あとがき

友人の 『大前さんに会いたい!』 のひと言から始まったオールドタイマーの足跡をたどる短い旅は、郡山城址の"百万一心碑"と向き合う形であわただしく終えました。

吉田町から広島新空港までのドライブに時間配分を間違えて出発間際に滑り込むアクシデントもありましたが、大きな満足感と共に満席の飛行機に乗り込むことができました。無線機材やコンピューターに満ち足りた世界に身をおく私たちには、時にアマチュア草創期に思いを馳せ、先駆者のご苦労を知るのも悪くないと思っています。

 
J2CG 林太郎 ミュージアム(3)
 

1931-1979に活躍されたJ2CG 故林太郎さんの遺品の一部をYAHOOオークションで落札された岩岡氏(JG1AKM)のご好意により「QRA BOOK」 「QSLカード」 「戦前のJARL NEWS」など貴重な資料をQTC-Japan.comに寄贈いただきましたので、その中から珍しいカードを順次ご紹介して参ります。

 
J8CA 松永 茂俊さんのQSLカード (JS1LPK)
 朝鮮京城 昭和10年5月24日開局 
J1EB 七欧商会のQSLカード
 東京・麻布東町 昭和5年6月 2日開局
J2CL 花井良太郎さんのQSLカード (JA2CMD) 
 四日市市北川原町 昭和7年8月30日開局
J2CF 西謙治さんのQSLカード
 名古屋市東区 昭和5年4月19日開局
 
 

[参考文献]

「アマチュア無線のあゆみ(日本アマチュア無線連盟 50年史)」 日本アマチュア無線連盟50年史編集委員会編
「日本アマチュア無線外史」 JA1CA 岡本次雄、JA1AR 木賀忠雄 共著 電波実験社
「ハム半世紀」 香山晃著 電波実験社
「JARLNEWS 1937年5月号」 J2CG 林太郎氏の遺品から(JG1AKM岩岡氏提供

編注:故人を付すること並びに
コールサインにEXをつけることを省略しています。

 
de JA1FUY

QTC-JAPAN.COM 2005.10.12
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