遺稿:「線番の話」PDF

 
 

梶井謙一さん(JA1FG、ex J3CC) は日本のアマチュア無線の草分けであり、日本のアマチュア無線家が尊敬してやまないオールドタイマーのお一人です。Updated 07/02/2016

 
     
 
昭和56年(1981)4月、アマチュア無線人気が頂点を極めた頃、JARL、日本アマチュア無線連盟の役職から退いて研究三昧の梶井謙一さん(JA1FG)からモービルハム編集部に、「線番の話」というタイトルの原稿が送られてきました。 この直筆原稿が手元に残っていますのでPDF(Portable Document Format)でお目にかけます。

在りし日の梶井さん(書斎兼シャックにて)

梶井さんは、誰でも知っている日本のアマチュア無線の草分けであり、多くのアマチュアが尊敬してやまないオールドタイマーのお一人です。大正14年(1925)秋、梶井謙一さん(当時大阪市)がJAZZ、笠原功一さん(当時神戸市)がJFMTのコールサインで波長300m、電信のQSOに成功し距離は20キロでした。

梶井さんと笠原さんは、その後JARL創立から昭和16年(1941)まで役員を務められ、梶井さんはJARLが法人化された昭和34年(1959)から42年(1967)まで会長職を務められました。笠原さんはソニーの前身、東京通信工業に入り井深大さんら創業者達と共にソニーの礎となったのはあまりにも有名な話です。


 
     
 

 

 「線番の話」(直筆原稿)
 
    著作はJA6PL 井地 義智氏、JA1FG 梶井 謙一氏の連名によります。 
    直筆原稿はPDFアイコンをクリックしてご覧になれます。
 
   【ご注意】 この原稿は保存版として鑑賞にのみお使いください。

   引用される時はクレジット(著作権の表記:筆者名、QTC-Japan.com)を付記してください。
 
 
       【梶井さんの私信




お暑うございます。


さて、小生 新潟総会から帰って数日経過した5月28日夜 突然吐いて苦しみ そのまま床についてしまいました。風邪にかかっていたことに気がつかないということらしいのですが、全然 兆候がなく、気が付いたときは相当 衰弱していたということです。

隣家が医者(ただし産婦人科)で毎日点滴を受け 6月いっぱいは床の中 7月に入ってようやく起き上がっての生活をしています。原稿を書こうとしても うまくゆかず ここに ようやく第3図をお送りします。第4図は引き続き手を着けており 今月末くらいまでに お届けしたい所存です。しかし、アマチュア無線 昔話の方までは 今のところ手が出ません。書けるようになったら ご連絡します。

              以上 要用のみ

                56.7.27

                  梶井 謙一





 
 
 
昭和56年(1981)5月18日と同7月27日「計算に強くなって差をつけよう」の続編を執筆されました。 添えられた図面に欠番を見つけて問合せしましたところ、新潟総会から帰宅されて体調を崩した様子を認めた来信がありました。 11月29日、「線番の話」の原稿が送られてきて、これが絶筆となりました。
昭和60年(1985)12月7日、梶井さんの訃報の知らせに埼玉県入間郡鶴ヶ島町のお宅を訪ねました。梶井さんの死を悼んで大勢のアマチュアが弔問に訪れていました。 家人のお許しのもとにシャック兼工作室に入れていただきました。実験用の机上にハンダごてやラジオペンチ、ドライバーなどが実験途中の機器とともに置かれていました。すぐにでも戻られて測定が始まるような臨場感のなかで梶井さんの足跡を偲びました。 (de JA1FUY)
 
 
 梶井さんの直筆の私信はPDFアイコンをクリックしてご覧になれます。
 
 
 
*Onlineとーきんぐ 第31回 「私の宝物 JA1FG 梶井さんの直筆原稿 を併せてお読みください。

 ICOM Webサイト「週刊BEACON」に掲載中

 

梶井さんは昭和60年(1985) 12月7日死去されました。享年86歳でありました。


写真は昭和55年(1980) 4月14日、JAIAフェアで岡本氏(JA1CA) が撮影したものです。

 

 
QTC-JAPAN.COM 2010.12.05
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